サステイナビリティという、羽のように軽くてふわっとした、形のないオブジェクト。いく何時も特別な想いを馳せながら、これをあの手この手で掴み取ろうとしてきた。あるときは掴み取ることのできる形ある「ときめき」を覚えたり、はたまた欺く様に指先の間をすり抜けてしまうこともあった。

 物心をついた時からずっと、何度も見返せずには居られなくなった。だって、美しいものは時折、眺めてみたくなるんだもの。ずっと放っておいて、どこか他の場所へ道草を食っていけなくなる。

 不思議なことに、それが何だって、一つに定義することはできない。でも、掴み取ることのできた例をいくらか列挙できる。燃料の爆発を抑えんきれんばかりに走る、獰猛な内燃機関車の横で、静かな三相交流で加速し瞬く間に走り抜ける電気自動車を見た時。無機質で人工的な色を帯びたプラスチックの歯ブラシに代えて、木の香りと共に柔らかく歯肉を撫でる竹の歯ブラシを使った時。一度形作ると消えないしわを寄せる使い捨ての包装紙に代えて、何度も使える強さとユニークな顔を持ちあわせた風呂敷で贈り物を包む時。

 それはまるで水が重力で自然落下するとき、雫と成すような自然な丸みを帯びるような感じ。そのありように、美しいと心が囁くこともある。

 一方で、きっとこう感じることはある意味で、行き過ぎているのだと思う。つまり観測を繰り返した後の感性と見るのか、それとも行き過ぎた執念と見るのか。斜向かいのあの人とは、同じものを観ても馳せる想いも違うのだろう。

 歴史を観て想う。技術を礎として人は信念を具現化し、積み重ねてきた文明のもとに今、僕たちは手元に有り余る「豊かさ」を享受した。広い宇宙の中での、生存という文明単位の欲求と平行線を辿るように、愛をもって他の人へ襷を渡すことは「回り回す」ことの具現化でもあると想う。そして決して少なくない数の人が、その命の回る有り様に特別な想いを馳せたに違いない。

 しかしその一方で、環境や資源、他の命を虫喰いし、破壊し、強奪を繰り返すのもまた事実である。ここに、人1人単位で観てもすでに、存続を維持しようと働く傲慢さや野蛮さを見てとれる。

 そう、だからこの想いは表裏一体であるような気もする。だからこそ、美しさを覚えることの反面で、それは絶対的でないんだということを律し、戒めることも時に必要では無かろうか。この獰猛さと隣り合わせにある矛盾に気づけば、どうして絶対美を保障できよう。

 これをもってもなお、ただ私1人だけの選り好みで、道のりの中でくり抜いた景色を観る。「美しい」「素敵」「綺麗」と想いを馳せる。この形の無いオブジェクトを目の前に写像したとき、たしかに残る「ときめき」を捉えずには居られないのだ。まるで、3次元空間内のベクトルを2次元平面へ写像するときのように、僕はこの形のないオブジェクトに光を当ててしまうのであり、その影を目の前に留めようとする感覚。

 そしてきっと、同じことを想う人もいると思える。思うようになってきたとも、肌感で言える。影をこぼしては、人の目に留まるように確かな場所に刻む。刻みたいと、心が言うのだ。そうやってまた、ふと見惚れてしまうことの繰り返し。