Jul 3, 2026

増えすぎて探せないノートと二種類の仕事

六年前。この場所の最初の記事で、僕はポケットの中の小さな魔法について書いた。記憶を半永久に伸ばし、知識の所有者の境界をぼんやりさせる魔法だ。あれからノートは増え続けた。魔法は約束どおり僕の記憶を外へと押し広げてくれた。

そしていま、その裏面に立っている。増えすぎて探せない。

整理そのものが仕事になっていた

Obsidian を使う人なら、たぶん覚えのある感触だと思う。ノートが数百を超えたあたりから、書いたはずの一枚に辿り着けなくなる。「これ前にも書いたよな」という既視感だけが残って本体が出てこない。

だから整理する。フォルダを切り直す。タグの体系を決める。リンクで結び直す。最初はうまくいく。けれど母数が増えればまた同じ場所に戻ってくる。気づけば書くことより整理に時間を使っている。整理そのものが仕事になっていた。

フォルダを切りタグを足し、また崩れた

僕が順に試したのは、どれも「場所」で解こうとする手だった。まずフォルダの階層。次にタグ。それでも足りずに地図のようなノートを作ってリンクで束ねる。Basesもやってみた。オントロジーによる相互リンクももちろん試したが、結局取りこぼしも発生して拾いきれていない。

どれも切った直後は気持ちが良く、棚が整い世界が見通せた気がする。けれど半年も経てばまた棚は溢れる。どの引き出しに入れたか自分でも思い出せない。場所を足すほど、その場所を覚えておくコストが増えてしまう。根本解決ではないのだ。

整理には二種類あった

あるとき気づいた。「整理」と一括りにしていた仕事は性質の違う二つの塊だった。

ひとつは重複や関連を人力で探す作業。「前に書いたっけ」を確かめるために記憶をたどりフォルダを開いて回る。これは母数に比例して重くなる。人がやると消耗するだけで何も生まない。本来は機械の仕事だ。

もうひとつは文章そのものと向き合う作業。束ね、割り、名前を付け直し、何を残し何を捨てるかを決める。コードで言えばリファクタリングにあたる。これは知的生産の本体だ。むしろ時間を増やしたい好ましい仕事だ。

僕の失敗はこの二つを分けなかったことだった。前者の消耗が後者の時間を食う。良い仕事が悪い仕事に押し出されていく。

「場所」では引けない問い

決定的だったのは、あるノートを探そうとしたときだ。僕が思い出したかったのは

「以前キャリアで大事になり、その失敗から学んだこと」。

これはgrep でもフォルダでもタグでも引けない。「大事になったこと」というフォルダは存在しない。そんなタグを前もって貼れるはずもない。人は保存した場所ではなく意味で思い出す。場所で探すという前提そのものが、もう合っていなかった。

発見は手放していい。判断は手放さない

ここから先は道具の使い方の話ではなく線の引き方の話である。

発見は手放していい。重複を見つけ、意味の近いものを手繰り寄せる作業のことだ。というより手放すべきだ。人力でやるほど消耗し量に負ける。

けれど判断は手放してはいけない。何が同じで何が違うのか。どれを残しどれを捨てるのか。その理解だけは自分の側に置く。以前に別の記事で書いた「理解を委任してはいけない」の、その理解の側だ。理解とは点と点を自分で繋ぐ作業を指す。そこを何かに委ねた瞬間、自分の頭は静かに浅くなる。

これはソフトウェアの現場ではとっくに当たり前でもある。重複したコードを目で探す人はいない。リンタや「使用箇所を探す」に任せる。人が手を動かすのはその先だけだ。どう書き直すかという判断のところ。ノートも同じでいいはずだった。

それから

この線引きに納得してから、僕は「発見」の側を機械に返す小さな仕組みを組み始めた。他所のサーバーに送らず、手元で完結して鍵は自分が持つ。

ノートに向き合うことはやめていないが、機械にできることを手放しつつある。空いた時間は文章と向き合う側に戻す。束ねて割り、捨ててまた書くのだ。

次はその「判断」を続けるための話を書きたい。未来の自分が確かに引けるとの安心感が、忘れる幸せを後押ししてくれるからだ。