LLMは行間が読めないが網羅性がある
LLMは行間が読めないが網羅性がある。人間が持っているすべての情報をコンテキストにいれることは難しいし、すべての情報を等価に扱い重み付けを優先的にすることもない。議事録の作成は網羅性が必要だから得意、しかし実際合意形成がなされたわけではないのに、話されただけでやると明記されることもある。
LLMは行間が読めないが網羅性がある。人間が持っているすべての情報をコンテキストにいれることは難しいし、すべての情報を等価に扱い重み付けを優先的にすることもない。議事録の作成は網羅性が必要だから得意、しかし実際合意形成がなされたわけではないのに、話されただけでやると明記されることもある。
LLMの記述は常に冗長になりやすいが、冗長であればあるほど出力token数が増えるのでLLM providerにとって利益となる。逆に端的に短く出力することは利益になりずらい。どれだけプロンプトを改良しても、人間のように端的な出力にはならないのかもしれない。
Ankur Sethi から引用
I want to understand every line of code that goes into this project. Never create, edit, move, rename, or delete project files unless I explicitly ask you to do so. Instead, show me every proposed edit in the chat so I can type it in manually.
Do not run commands that modify project files, install dependencies, or change repository state unless I explicitly request that action. Instead, show me those commands in the chat so I can run them manually.
I’m an experienced developer. Do not explain syntax, APIs, programming concepts, or implementation details unless explicitly asked.
#pkm #diy #less-is-more #ai #software
大事だと思っていたけれど気づいたら埃をかぶっていたノートを見つけて片付ける。そんな手助けをできるObsidianプラグインを作りました。公式のコミュニティプラグインとして公開しています。
保存庫が大きくなるとノートもバックリンクも増えます。 リンクが多重に繋がっているとき、グラフビューではノートは何にでも繋がる寄せ集めに見えてしまう。こうなると情報は多いけれど、多いがゆえに目的のノートにすぐたどり着けなくなります。
線が多いノードは目立ちます。でもそれが意図した目次なのか無自覚な寄せ集めなのかは見た目で区別できません。
また前にまとめたノートのつながりは時間が経つにつれて妥当でなくなることもあります。それが今も妥当かはグラフビューに表示されません。
ノートを育てるときはつい足す方向ばかり考えます。 関連を張ってリンクを増やして思考を深めていく作業です。
でもその前に意識したい作業があります。 つながりを足す前にまず要らないつながりを減らす。 絡まりすぎたノートを捨てる引き算の発想です。
これでやっていることは部屋の片付けに似ています。 新しい物を置く前にまず古い物を手放す。ノートでも同じことをしたいと思ったことがきっかけでした。プラグインの名前もここからとりました。
以前よく編集するノートを大きく表示するプラグインを作りました。これは「よく手を入れるノート」を見せるものです。これはいわば部屋の中でお気に入りの持ち物に似ていると思います。よく手に取るから、埃がかぶっていることもないでしょう。
今回は自分が大事だと思っていたけれど、結局埃をかぶってしまったもの。そんな感覚に似ているのかもしれません。
片付けで大事なのは、たとえばここ1ヶ月で使っているかどうか?という観点です。 これを参考に、古いノートと結合しすぎたノートに重みを置くようにしました。
採点 = ノートのつながりの数 × (1 + 放置日数 / 1ヶ月)
意図的なノートは除外します。大事で埃をかぶってもいいノートもあるでしょう。それに意図的であればいいんです。
画像や動画などの添付ファイルへのリンクは数えません。見たいのはノート同士の結合だからです。
片付けは祭りであると、近藤麻理恵さんの書籍で習いました。 一つであれば儀式に、腰をすえるのであれば使い方も祭りに近く2つ用意しました。 すぐに始められるように、Obsidian標準のコマンドパレットを叩くだけで1コマンドでできます。
一件のノートと向き合う。首位の1件だけを出します。日課や隙間時間向けです。
あるいは数件と向き合うか。上位の数件を出します。近藤麻理恵さんの流儀の片付けはどちらかというとこちらです。
全体を機械的に並べ替えて眺めるのではありません。上位から1件ずつ自分の手で向き合います。
片付いた部屋にいることは気持ちがいいものです。好きなものに囲まれていますし、何がどこにあるのかすぐに取り出せる。
ノートと向き合うことは性質上いろんなアイデアを複数に閉じ込める作業ともいえますが、その分必要なときにうまく忘れることが大切です。
ものを、ノートを増やし続けられるのはあとで必要なときに引き出せると信じられるからです。安心して忘れられる仕組みがあって初めて自分の部屋に貯め込めます。
綺麗に片付いていれば、大切にしているノートに辿り着くことも早いでしょう。Katazukeを通して、あなたがもっと大切なノートと向き合えるようになったら嬉しいです。
六年前。この場所の最初の記事で、僕はポケットの中の小さな魔法について書いた。記憶を半永久に伸ばし、知識の所有者の境界をぼんやりさせる魔法だ。あれからノートは増え続けた。魔法は約束どおり僕の記憶を外へと押し広げてくれた。
そしていま、その裏面に立っている。増えすぎて探せない。
Obsidian を使う人なら、たぶん覚えのある感触だと思う。ノートが数百を超えたあたりから、書いたはずの一枚に辿り着けなくなる。「これ前にも書いたよな」という既視感だけが残って本体が出てこない。
だから整理する。フォルダを切り直す。タグの体系を決める。リンクで結び直す。最初はうまくいく。けれど母数が増えればまた同じ場所に戻ってくる。気づけば書くことより整理に時間を使っている。整理そのものが仕事になっていた。
僕が順に試したのは、どれも「場所」で解こうとする手だった。まずフォルダの階層。次にタグ。それでも足りずに地図のようなノートを作ってリンクで束ねる。Basesもやってみた。オントロジーによる相互リンクももちろん試したが、結局取りこぼしも発生して拾いきれていない。
どれも切った直後は気持ちが良く、棚が整い世界が見通せた気がする。けれど半年も経てばまた棚は溢れる。どの引き出しに入れたか自分でも思い出せない。場所を足すほど、その場所を覚えておくコストが増えてしまう。根本解決ではないのだ。
あるとき気づいた。「整理」と一括りにしていた仕事は性質の違う二つの塊だった。
ひとつは重複や関連を人力で探す作業。「前に書いたっけ」を確かめるために記憶をたどりフォルダを開いて回る。これは母数に比例して重くなる。人がやると消耗するだけで何も生まない。本来は機械の仕事だ。
もうひとつは文章そのものと向き合う作業。束ね、割り、名前を付け直し、何を残し何を捨てるかを決める。コードで言えばリファクタリングにあたる。これは知的生産の本体だ。むしろ時間を増やしたい好ましい仕事だ。
僕の失敗はこの二つを分けなかったことだった。前者の消耗が後者の時間を食う。良い仕事が悪い仕事に押し出されていく。
決定的だったのは、あるノートを探そうとしたときだ。僕が思い出したかったのは
「以前キャリアで大事になり、その失敗から学んだこと」。
これはgrep でもフォルダでもタグでも引けない。「大事になったこと」というフォルダは存在しない。そんなタグを前もって貼れるはずもない。人は保存した場所ではなく意味で思い出す。場所で探すという前提そのものが、もう合っていなかった。
ここから先は道具の使い方の話ではなく線の引き方の話である。
発見は手放していい。重複を見つけ、意味の近いものを手繰り寄せる作業のことだ。というより手放すべきだ。人力でやるほど消耗し量に負ける。
けれど判断は手放してはいけない。何が同じで何が違うのか。どれを残しどれを捨てるのか。その理解だけは自分の側に置く。以前に別の記事で書いた「理解を委任してはいけない」の、その理解の側だ。理解とは点と点を自分で繋ぐ作業を指す。そこを何かに委ねた瞬間、自分の頭は静かに浅くなる。
これはソフトウェアの現場ではとっくに当たり前でもある。重複したコードを目で探す人はいない。リンタや「使用箇所を探す」に任せる。人が手を動かすのはその先だけだ。どう書き直すかという判断のところ。ノートも同じでいいはずだった。
この線引きに納得してから、僕は「発見」の側を機械に返す小さな仕組みを組み始めた。他所のサーバーに送らず、手元で完結して鍵は自分が持つ。
ノートに向き合うことはやめていないが、機械にできることを手放しつつある。空いた時間は文章と向き合う側に戻す。束ねて割り、捨ててまた書くのだ。
次はその「判断」を続けるための話を書きたい。未来の自分が確かに引けるとの安心感が、忘れる幸せを後押ししてくれるからだ。
どこかで見かけて「興味はある」のに積まれたままの論文や長文記事があります。好奇心はあります。でも、腰を据えて読む集中の時間は、なかなか取れません。読むのは能動的な作業で、その枠を確保するのが難しいのです。
一方であるのは、受動的な時間のほうです。移動中、散歩、窓の外をぼーっと眺めている数分は、意識しなくても訪れます。むしろそういう瞬間がベストで、聞くのは読むのと違ってそこにすっぽり収まります。だから私が欲しいのは、斜め読み用の要約や書き起こしではありません。手を空けたまま、ただ聞くだけで入ってくるくらいに平たく噛み砕かれたものです。
実は、既存のGoogleのツールはこの大半をすでにやってくれます。NotebookLMの音声概要(Audio Overview)や Deep Research の音声機能は、テキストの塊を2人のホストによる自然なポッドキャスト調の会話に変えてくれます。日々の聞き物として、情報収集として、取れない読書時間を取り戻す手段として、これは本当に良いです。声は人間らしく、トーンも決まっています。
ただ、しばらく使うと限界が見えてきます。具体例が薄かったり、尺も自分でコントロールできなかったりします。説明はしてくれますが、腑に落ちさせてはくれません。包括的でないこともあります。名ホストがゲストから鮮やかで具体的な例を引き出す本物のポッドキャストと並べると、自動版は平板に感じます。論文が何を言っているかは伝わるのに、刺さってはこないのです。
汎用版が弱いのは2つ——具体例と質問です。ここを作り込みました。まず、大きな2つの役割に分けて台本を作成します。
説明役の本業は「翻訳」です。 抽象的な主張には必ず具体例か比喩を添えます。専門用語が出たらその場でほどきます。裸の専門用語は1つも残しません。
質問役はリスナーの代理人です。 「最高のポッドキャスト・インタビュアー10人」のリストを調べ1、各人が語る技術を読み、理解を前に進めるハードスキルだけを敢えて抜き出しました。短く問う、直前の発言を受けて掘る、リスナーがつまずくその場所を代弁する、網羅でなく核心へ寄せる、具体例を要求する——といった型です。温かさ・ラポール・ユーモアそのものといったソフトスキルは、この文脈では台本にノイズが入ったり、エージェント相手では幻覚を引き起こす恐れがあるため、意図的に捨てました。
パイプラインはいたって簡単です。PDFを取り込み、抽出し、論理を地図にし、具体例つきで平易に噛み砕き、15〜30分に尺を見積もり、2声の対話に書き起こし、原文と突き合わせて検証します。そのうえで Gemini 3.1 Flash TTS が自然な声を与えてくれます——ここは自動ポッドキャストがすでに得意な部分なので、機械に任せています。
音声化は、この小さなスクリプトにまとめてあります(声を固定し、間を入れ、モデルの上限に合わせてチャンク分割しています): gemini_tts.py。
初期にはgemini-2.5を使いましたが、テンポが速すぎました。とんとん拍子で、2つの声が息継ぎもなく打ち合います。効率的に聞こえて、聞いていて疲れます。直し自体は小さく、ターンの間に「間」を入れ、落ち着いた話し方にし、急がないよう演出指示を足しました。間が要ることに、大きく気づかされました。
驚くべきことに、Gemini 3.1 Flash TTSでは、この「間」や話し手のトーン——いわゆるソフトスキルに相当しそうな部分を、モデル側が補ってくれています。2.5と聴き比べると、差は明らかでした。
このツールの役割は、「噛み砕いて、一次情報に触れやすくする」ことです。要約や音声は、本来なら一生開かなかった論文への入口であって、原文の代わりではありません。「知っておきたい」程度なら、ただ概要を読むよりもグッと理解が進みます。けれど引っかかった論文なら、聞いて終わりにせず原文にあたり、自分の言葉で噛み砕く——その消化は自分でやらないといけません。散歩の話で書いたように、AIが代わりに生み出せない「一次の気づき」は、結局そこからしか出てこないと思います。
このツールにも限界があり、台本を作らせ、具体例をきいてもわからないことがあります。そういうときは、フォーマット化された問いではなく、自分の言葉で agent に聞きます。例えば私の場合、論文そのものをコンテキストに置いたまま、必要なら図にも起こしてもらったりします。そして、その解消を Obsidian にまとめていきます。地道ですが、一点ずつ潰していくことで、聞いただけの話が少しずつ自分の血肉に変わっていきます。理解を委任してはいけない。
なお、生成した音声も台本も、権利上ここでは公開していません(音声は台本の読み上げで、中身は同じ二次的著作物です)。元論文の著作権者の許諾なく配布するのは避け、あくまで自分の個人利用にとどめています。同じ仕組みを使う場合も、各自が正当に入手した文献を、自分の範囲で噛み砕く用途に留めていただければと思います。
出典: Frank Racioppi「The Ten Best Interviewers In Podcasting」(Ear Worthy / Pod-Alization, 2023)。この記事を起点に、各ホスト本人の発言・ブログ・インタビューを調査して整理しました。各ホストの一次ソース: Michael Barbaro、David Pogue、Audie Cornish、Elaine Appleton Grant、Robert Peterpaul、Mike Carruthers、Evan Stern、Matt Gilhooly、Jordan Harbinger、Zale Mednick。 ↩

生成AIは、人間と見分けがつかないほど巧みな嘘をつけるようになった。 そんな時代だからこそ僕たちは、「理解」そのものをAIに委任してはいけない。
情報を集め、自分なりに解釈し、言葉にする。 そしてバラバラに見える知識や経験をつなぎ合わせ、一つの線にしていく この「点と点を繋ぐ」作業こそ思考の本質であり 決して他者に、ましてやAIに委任してはならない領域だ。
ではどうすればいいのか。
簡単なことから始めるなら、まずは日記じゃないだろうか。 日々の出来事や感じたことをありのまま自分の言葉で記録する。
次に、ただ書きっぱなしにするのではなく、何度も過去のノートを振り返ること。 書かれたアイデアや記録が、別のノートのメモとふとした瞬間に結びつくことがある。
そうしてノートと向き合い更新し続けることで思考は深まっていく。
こうした営みを、日々のわずかな時間で見つけて続ける。 そうでなければ僕たちは思考停止に陥り、前へ進むことはできないだろう。
Hello world!
革命の新しい一歩を見たので、書き留めておく。新しい顔ができたのだ。
計算機上世界の自己は周りから見られるものである、という観点は非計算機世界でも同じことが言える。しかし前者の世界では容姿を大きく創造することができる点が異なる。どのみちこの世界ではMLや計算機は非計算機世界と融合しており、「この世界で自分とは何か?」と在り方を見つめ直しても、それも融合状態にあることに変わりはない。新しい顔を創るのに使用したデータは非計算機世界の顔写真であるが、支配的だったのは集団叡智による視覚的芸術の賜物であったことを忘れないようにしたい。
視覚的情報とは生物にとって生活の重要な一部である中で、この顔はそんな自分の在り方にうまくハマったと感じた。拡張世界においても個が紐づいていることの裏返しでもあるが、顔の創造にかかったのは僅か20分と数百円。高度に大衆化した革命の新しい一歩を記録した日と言えるだろう。